芥川龍之介『トロッコ』のテーマを考える

 教科研・国語部会では作品のテーマをとらえる授業が課題になっていますが、そのささやかな試みのひとつとして、提案してみたいと思います。

この作品のテーマを考えるために、手順として六つに区分した場面のテーマをふりかえってみましょう。

 

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  • 第一の場面は、「ふくらむトロッコへの好奇心」とまとめました。良平が工事場のトロッコの格好よさにあこがれ、トロッコへの好奇心をふくらませていったことが描かれていました。

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  • 二の場面は、「消化不良なおもい(不満足な結末)」とまとめてみました。土工のすがたの見えないすきにトロッコに飛び乗ってはみたものの、すぐに止まってしまい、そのうえもどってきた土工にどなられて、逃げ帰ったということがかかれていました。

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  • 三の場面は、「夢がかなった良平のトロッコを押しながらゆれうごく心もようのおもしろさ」とまとめました。土工といっしょにトロッコを押しながらも、いつ、もう押さなくてもいいと言われるか‐と心配したり、下り坂をトロッコに乗せてもらってすべりくだった快感など、良平の心もようのおもしろさが描かれていました。

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  • 四の場面は、「土工と良平の心理的なへだたりの対照性」とまとめました。遠くまで来すぎてしまったと感じて、はやくもどってくれないかなあ‐とあせる良平と、そんな良平のいらだちにはまったくむとんちゃくに茶店に入ってのんきそうに茶などを飲んでいる、土工たちとの心理の対照性がえがかれていました。

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  • 五の場面は、「自身の身にふりかかった危機をのりきるために必死にかけつづけた良平」とまとめました。「われはもう帰んな」と突然いわれて、自分のおかれた状況をさとり、遠い道のりを、せまりくる闇の恐怖とたたかいながら必死にかけもどってくる、良平の悲壮さがえがきだされていました。

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  • 六の場面は、「遠い道のりを駆け通してやっとわが家にたどりついた、万感せまる感情を、ただ泣き立てることでしか表わすことのできなかった良平」とまとめました。必死のおもいでようやく家にたどりついた良平は、家族や近所の人たちの問いかけにも、その感情をただ泣き立てることでしか表わすことができなかったのでした。

 

  • このように、1~6までの場面のテーマをまとめてみましたが、でわ、作品全体のテーマはどうとらえたらよいのでしょうか? 作品の最後のところをもう一度みてみましょう。ここで突如26歳になって妻子をかかえるようになった良平がでてきます。が、この物語の舞台は何才のときのことでしたか? 8才の時のことですね。しかし彼は、大人になってからもどうかするとそのときの彼を思い出すことがあるのですね。なぜでしょう? それはきっと、良平にとって、とてもわすれることのできない「強烈な体験」だったからではないでしょうか?

 

  • ということで、この作品のテーマを、「大人になった今でも突然おもいだされてくる、ただ泣き立てることでしか表現できなかった幼い日の記憶――トロッコへの子どもらしい好奇心からおもわぬ危機におちいり、命さえたすかればと、板草履や羽織を脱ぎ捨ててまでも、遠くさびしい山道を必死の思いで家までかけもどってきた体験」―と、まとめておきましょう。

 

  • ところでおしまいの文の、「塵労に疲れた彼の前には、今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が細々と一すじ断続している……」が意味しているものは何でしょうか?

 妻子といっしょに東京へ出てきた良平は、今、どんな仕事についていますか? ある雑誌社の二階に校正の朱筆を握っているのですね。今では、良平は家庭をもち、比較的安定した生活をおくっているようにもみえますが、それでもどうかすると、あのときの情景がふと脳裏にうかんでくるのですね。それは、良平にとって、あの出来事というのが、ある意味で、生き方をも決定づけたとおもえるような、それほどに衝撃的な経験であった‐ということを表わしているのではないか……と・・・