「漢字論のこころみ」が本になりました

この「国語科 学習ノート」に掲載していた「漢字論のこころみ」が本になりました。

インターネットでは今のところ「紀伊國屋書店ウェブストア」「Honya Club」でお買い求めいただけます。

書店でみかけたら、一度手に取っていただけますと幸いです。

 

※なお、書籍化に伴い、このノートでは「漢字論」の記事を非公開とさせていただきました。ご了承ください。

www.kinokuniya.co.jp

www.honyaclub.com

読み方教育における指導過程

 (篠崎第三小学校夏期分会合宿教研 1973.8.27白樺湖畔にて)

I 読み方教育とは何か

①教科研・国語部会の考え方

 人間がコトバを覚えるということは、たんに何かしゃべれるということや、書かれている文字の音声化ができるということだけを意味しているのでは断じてない。コトバは、事物あるいわ事実・現実との対応関係のうえで成立しているものである以上、事物あるいわ事実や現実の深い理解と認識とが、そこには成立していなければならないということを意味している。人間がコトバを覚えるということは、そのことばであらわされている事物なり事実・現実を認識するという作業である。すくなくとも、まず目に見えるもの 耳に聞こえるもの 鼻ににおってくるもの 舌に感じる味 ヒフに感じてくるものなどを、「これは、なんだ」と覚えていくことから始まって、「それは、なんだ」「あれは、なんだ」というようにひろがっていく。したがって、文章を読むという活動は、コトバをとうしてその背景に描かれている客観的な世界を認識する活動のことだといえる。

 すでに述べたようにコトバは現実に存在するものとの対応関係のなかで成立する。だから しゃべられたコトバ(音声)や書かれているコトバ(文字)を理解するということは、そのコトバが指し示している現実を理解することだということになる。しかし、コトバは現実そのものではない。いいかえれば 文章は現実を映しだしたものではあるが、現実そのものではない。文章イコール現実というほどには単純ではない。したがって 文章をどのように読めばその文章が描いている現実にもっとも近い世界を頭のなかにつくり出すことができるかということが読み方教育の基本的なテーマとなる。・・・・・・・・・しかし、読書による認識の深さは、読者の読みの能力に直接に依存する。とするならば、子どもたちをすぐれた読み手・読みの能力のすぐれた読者として成長させてやらねばならない。ここに読み方指導に対する基本的な要求がある。

 

②文部省の考え方(沖山 光氏)(教科書調査官)

* ことばによる表現とは、ある個人がおのれの所属する集団に公認された「ことば」という社会的記号(言語)とその「結合法則」(語法)とによりながら、自分という個人の意志・感情などを読者に伝えるために、どう描き出すかという言行為の所産(言)として一般読者のまえに客観的に提示したものである。そして、読解ということは、この書き手個人の「ことばによる表現」(文章)を読み解くことであると考える。

* 私(沖山 光)は、文章を「書き手その人の所産」とみる立場を強くとる。「書き手その人の意味構造化した」ものを表現としての文章とみる立場に立ち、読み手が書き手の思考に即してー書き手その人の立場に身をおいて 文章を内面から理解しようとねらってー文章を意味的に「再構造化」したときに、はじめて読解は成立するという立場をとる。

* 「あらゆる作品は呼びかけである。書くとは言語を手段として、私が企てた発見を客観的な存在にしてくれるように 読者に呼びかけることである。」(サルトル『文学とは何か』) したがって 読解するとは、この呼びかけに応じて 作者とともに感じ 喜び 悲しみ 作者とともに考えることである。

* 国語の学習指導がさきにも述べたように、改訂指導要領の線に沿って目的的に実施される以上、まず指導要領に示された学年目標や指導事項を達成することが、国語指導の「めあて(目標)」であって、題材や話題(話す・聞く指導のための手がかりになる材料)は、その目標達成という観点から選ばれるべきである。・・・・・このように読解の目標が異なれば、その目標達成の読解指導なのであるから、とうぜん読解指導の方法・方向・深浅(構造的な関係把握)の度合いが変わってくるのが今日の読解指導である。読解指導の方法・方向は、指導要領に示された学年目標や指導事項(内容)によって変わってくるのであり、そのことのために使われる読解材料としての文章の表現形式によって指導の方法や方向が左右されてくるのではない。

 

II 文学作品と読み方教育(教科研・国語部会の考え方)

 文学作品の場合はきわめてありふれた個別的な現象をとらえてきて、それを形象化し、形象と形象とを構造的にくみたてて典型をつくりだす。つまり、登場人物の生活の本質が形象という具体的な姿で提示されているものを文学作品とよんでいるわけである。科学書とちがうところは、本質が現象をとうして客体化されているところにあるだろう。人間の生活の本質と現象、一般的なことと個別的なこととが形象として統一されて読者の前にさしだされているのである。したがって、文学作品はひとつひとつの形象を厳密に読みとらねばならないし、同時に形象と形象とがどのような構造のもとで結びついているのかということも読みとらねばならない。

 描かれている生活現象がなんの構造をも持たずバラバラならば、それは生活現象のきわめて個別的な事柄がバラバラに並べ立てられているにすぎない。それは文学作品とはいいがたい。描かれている生活現象が一見バラバラにちらかっているようにみえてしかも統一されているところに主題および理想が存在する。その意味で文学作品は、空間的で立体的でさらに動的な思考を要求する芸術だといえる。したがって、文学作品の読み方指導は科学的説明文の読み方指導よりもさらに複雑な順序が要求されるだろう。もし、そのような読み方指導をきちんとやってもらわない子どもは、文学作品に限っていえば、登場人物の生活現象の個別的で特異な一部分に興味をもったり、自分の経験と似かよった部分だけをクローズ・アップして作品全体の理解にはゆきつかぬというあやまりをおかすであろう。つまり、その作品のもっている主題や理想を正しく読みとることができなくなる。したがって、その作品から正しい知識を得ることができなくなってしまう。

 以上で明らかになったように、文章を正しく読む能力をもつということは現実を正しく認識する能力をもつことを意味する。したがって、そこで学んだ知識は、たとえ科学書から学んだものにしろ文学書から学んだにしろ、現実的な事件にぶつかったときの判断と行動を誤りのないものにしてくれるだろう。さらには、知識をもたない者にはとうてい見えないものまで見通す能力をあたえてくれるだろう。とくに文学書の場合は、正しいものと正しくないものとを見分ける能力をあたえるだけでなく、正しくないものを醜いものとしてはげしく憎み、正しいものを美しいものとしてあこがれる人間的でしかも気高い感情をうえつけてくれるだろう。

 

III 読み方教育に要求される一般的な課題

 (1)子どもに人間や人間社会や人間をとりまく自然についての知識を与えること。

* 文章(書物)とは現実の反映である。だから文章を読むことのできる者にとって、本はいろんな時代における人間の生活・人間社会についての本質などを明らかにしてくれる。いろんな社会的条件のなかで生きている人間の精神生活の内容を教えてくれる。本を読むことの基本的目標は現実を認識すること。

(2)本(文章)を読ませることによって子どもたちに強い影響をあたえ、子どもたちの心のなかに精神の富をつくりあげていくこと。

* 美についての感情・美の理想像が子どもの心のなかに育ち、子どもはそれらにしたがって行動するようになる。つまり、文章の内容と論理が読者の世界観を形成していくということ。

(3)子どもの思考能力の発達をうながす。

* 科学的な文章は概念および論理の体系が文章のなかにはいっている。そういうものを読ませて、その概念および論理を追求させるということが、子どもの思考能力を発達させることになる。文学作品の場合は、形象的な思考能力を育てていくだろう。

(4)日本語とくにその単語と慣用句を子どもに所有させる。

(5)子どもの言語活動ー話す・聞く・書くの発達をうながす。

(6)意識的な正確なスラスラとした表現的な読みの習熟をうながす。

  

IV 国語科教育の構造・・・・・・・略

 

V 文学作品の読みの指導過程

A 伝統的な指導過程(石山脩平「解釈の実践過程」)

第1段階(通読)

素読・・・・全文をともかく1~2回ないし数回訓読すること

②注解・・・・未知難解の語句についてその一般的意味を理解すること

③文芸の概解・・その結果として、おのずから全文の主題と事象と情調とがごく大体の形に会得されること

 

第2段階(精読)

①主題の探求と決定

②事象の精査と統一

③情調の味得またわ基礎づけ

 

第3段階(味読)

①朗読  ②暗誦  ③感想発表

 

第4段階(批評)

①内在的批評  ②超越的批評

 

B 教科研・国語部会の指導過程

 i 文章の知覚の段階・・・・・・形象の情緒的な理解=一次読み・二次読み=

 ii 文章の理解の段階・・・・・・形象の本質的・一般的理解=主題と理想の探求=

 iii 表現読みの段階・・・・・・・総合的な読み=朗読=

 * 指導過程は対象=言語作品の構造(内容)に規定される。

 

資料

I 沖山光氏の主張

①  読み方教育では、言語作品の読みをとうして作者の意図とか思想とか感情(立場)を子どもたちに理解させることが大切である。-文章は作者の立場を表現するものである。

② ふつう文章は思想を文字をもって表現したものだとかんたんに考えられているが、文章を書くということはできあがっている思想を書きうつすのではなく、書きながら思考し思考しながら書くことである。

③ そうだとすれば、われわれが読解するめあても、書かれた事柄をねらっていくのではなく・・・・うごきながれていく内部思考をとらえようと努力するのである。

④ 何よりも文章はかき手個人の所産なのであるから、かき手個人の思考の運びと直接対決することが文章読解の本道であると考える。

⑤ つまり、言語作品はかき手が自分の思考の流れをことばで表現したものであるから、文章を読むということはかき手の思考の流れをたどることにほかならないのである。したがって、よみにおける理解ということは書き手の思考の再生産活動の完了を意味している。

⑥ 理解ということは、語る主体の思考に即しながら、きく己の脳裡に相手の思考をみずからの手で再現したときにはじめて成立するものである。

⑦ したがって、読解するとは書き手の思考をたどって書き手のいわんとすること(主題や意図)を読みとることなのであるから、思考をたどるさいの決め手となる依存関係のことばを正確におさえることが、読解操作の重要な着眼でなければならない。

 

II 時枝誠記氏の主張

①  わたしの言語理論である言語過程説の立場からいうならば、表現し理解する活動・行為 そのものが言語である。したがって、国語教育といっても生徒のそとにある国語を生徒にあたえることではなく、生徒の表現・理解の実践活動を調整・育成することが国語教育の内容となるのである。・・・・・思想内容は理解活動によって獲得されるものであり、また表現活動によって内容となるものである。したがって、国語教育の任務とするところは思想内容を理解し表現するところの態度・技能・方法の教育であるということになる。

② 国語の機能はあらゆる生活目的を達成する手段であることにあるが、国語教育の目標はそのような手段・技術・方法の教育であり習熟である。

③ 国語教育の目的は獲得される知識や思想にあるのではなく、それを獲得する手段・方法、すなわち読み方・聞き方にあるのである。

④ 言語というものは、事物やその表象、思想や感情を表現したり理解したりする過程すなわち、聞き・話し・読み・書きそのものであるから、そういう言語活動の技術を訓練すること、その技術に習熟することが国語教育の目標になる。

⑤ 文学は言語であり、日常の言語とはちがって、それは うつくしい おりめただしい あやのある言語である。

⑥ 文学の表現する思想とか事件とかは、文学にとっては素材であって、要素とはいいえない。

⑦ 読者は鑑賞者であるよりも表現の理解者として、虚心 作者のことばに耳を傾ける聴き手の位置にたたなければならない。

 

III 荒木繁氏の主張

① 文学の授業はなによりもまず生徒・子どもの文学的体験=作品を読んで感動すること=を成り立たせることだ。

② 認識というのは客体への主体の投影にすぎない。

③ 文学というものは教え込まれるものではなく、自分なりの力で発見するしかないのだ。この意味で、教師は生徒の自分なりの読み方を大切にして、それを基礎にして、生き生きとした自由の確保された授業のなかで、文学の発見を助けていく配慮が必要である。

* 「主体読み」・・子どもの自分なりの様々な読みとり方を奨励する読み方指導のこと。=授業過程を規定するものは子どもの主体性=

④ 文学的経験とはどういうものか。文学的経験が単なる知的なものではなく、きわめて情意的な性質のものであることは一般に認められていることである。私たちがすぐれた芸術作品に出会ったときの心的経験を感動ということばで言い表すのも、このことを示している。感動というと何かたんに感情的な反応のようにとる人がいるかもしれないが、私は、文学的感動とは知情意を統一した全人格的な活動をともなうものだと考える。感情的側面が強くでてくるのは、文学的経験というものが私たちの既成の知的通念の平面の下に横たわり、混沌と渦巻いている情意的なものに働きかけそれを浮かび上がらせるからである。

⑤ すぐれた文学は私たちの日常生活や観念のなかで弥縫されている矛盾に突き入り・あばきたて、私たちの心のなかの葛藤を呼び起こす。私たちの内部にひそんでいる問題意識をゆさぶり自覚化させ、人間や社会や自然をこれまでとちがった光のもとに照らしだし見直させるに至る。文学はこのように私たち人間存在の深部と交渉するものであり、したがって、その経験はきわめて主体的なものとかかわる経験である。文学的ないい方をすれば、文学的経験とは作品と読者主体との火花の散るような交流現象であり、そのなかで読者主体の内部になんらかの認識的価値的変革がおこるのである。

 

IV 奥田靖雄氏の主張

①  読み方の指導は言語によって表現をうけている思想を理解させる仕事である。ここでは読みとりという思考過程は直接に指導内容にならない。言語作品の内容とその表現が直接的な指導内容になる。子どもの読みとりの過程は言語作品の内容と表現とを教えていく仕事の背後にかくれてしまう。正確にいえば、読み方教育においては、子どもの思考過程の指導は作品の内容とその構造をおしえることで置き換えられるのである。言語作品における思想とその論理的な構造とは言語活動における思考と思考過程の定着であり、それはさらに読み手の理解と理解過程を規定する。

② 読み方教育においてなによりも大切なことは、言語作品をなかだちにして子どもたちを現実の認識に立ち向かわすことである。文章は現実を表現するものであり、文章の内容は反映した現実である。

③ 読むということの意義は何よりもまず書物をとうして生活に必要な思想を獲得するということにある。

④ 言語作品の社会的な存在意義は人々の生活に必要な思想がそこにしまってあるという点にある。

⑤ 個人の思考過程は思想をうみだす心理的な過程であるが、ひとたびうみおとされた思想は社会的に伝えられている知識の体系のなかにおりこまれて、個人の心理的な思考過程から切りはなされる。この知識の体系は、個人の思考としてではなく、観念的な客観として、社会的な意識として、個人のそとに存在し、個人が認識しなければならない対象である。

⑥ 心理的な思考過程から知識の体系としての思想への移行は、思考過程というものが主体のそとに客観的に存在する現実を反映していく過程であるということによってひきおこされる。したがって、その所産である思想は客観的な現実の反映であり、現実の客観性をその内容にもちこまないわけにはいかない。

⑦ 言語作品というものは自然や人間の生活を表現したものである。

⑧ 厳密にいって、言語作品は思想を表現しているものではなく現実を表現しているものであり、反映した現実が思想とか形象とかいわゆる観念の領域をかたちづくっているのである。

⑨ 言語作品の内容は客観的に存在する現実(人間の内的な経験も含めて)の表現である。

⑩ 言語作品の内容においては、客観的な世界は主体(人々)を媒介にし、そこで一度折れて映し出されている。したがって、主体に依存しているという意味では言語作品の内容は主観的なものである。だが、他方では言語作品の内容は客観的な世界の反映であり、それに規定されている。その意味では、つまり客体に依存しているという意味では言語作品の内容は客観的である。それは人間の認識活動がすべてそうであるように、主体と客体との相互作用のうちにつくりだされたものであって、客観的なものと主観的なものとの統一である。

⑪ 心理的なものの存在の方法は過程であり活動であってそれ以外ではありえない。心理的な現象は個人とそれをとりまく世界との不断の相互作用の過程のなかにのみ存在しているのであって、個人とそれをとりまく外界との相互作用の過程がとまれば心理的な現象も存在しなくなる。=唯物論者の理解

⑫ 感情はそれをよびおこす対象の反映活動のそとには存在しない。

⑬ 唯物論的な文学理論は、文学の本質を人間の生活の形象的な認識と規定する。

⑭ 唯物論的な文学理論は、文学をたんに現実の人間生活の機械的な反映だとはみていない。同時に、文学のなかには人間の生活に対する人々の感情=評価的な態度がしめされているとみている。人間は対象を認識することのなかに一定の態度をも表明するのであるが、その態度というのは、客体と主体との関係、客体に働きかける主体のたちばの反映にほかならない。いいかえれば、客体はつねに主体の立場をとうして作品に反映するのである。

⑮ 文学教育における文学作品の読みの目標を、本質的には人間に対する形象的な認識・美意識・人間社会の理想像・その実現への意志など、子どもの心のなかに豊かな精神の富をそだてあげることのなかに見いださなければならない。

⑯ 文学の授業がしなければならない大切なことは、未知の世界に生徒をつれていってそこで新しい認識活動をさせることである。

⑰ 文学の授業は目標を自己の認識と変革とに置くとせまくなる。文学の授業の目標は自己を含めて人々を認識することである。

⑱ 文学的な認識は、美の基準にしたがって生きること・行動することを教えてくれる教科書になる。なぜなら、文学作品のなかには、うつくしい人間 うつくしい人間関係がえがかれていて、それが読み手の生活の同伴者としていつまでも記憶のなかに生きつづけ、そのように生きることを読み手に感情的にも理性的にも要求しつづけるからである。

⑲ 唯物論的な心理学は、「よみ」を言語作品の読み手の意識への反映の過程としてとらえ、その過程は読み手の主体的なもの、つまり、生活経験・体験・知識などを媒介にして進行するものであると考える。

⑳ 主体的なものを媒介にして客体(言語作品)を認識するのであるから主体的なものは客体を認識するための手段であって、それの影響のもとに生じる「読み」における主観性は従属的な位置に引き下げられる。

21 文学作品はつねに人間の性格や行動、社会的な出来事、とりまく自然現象などをえがきながらそれらを肯定的に(あるいわ否定的に)、美しいものに(あるいわみにくいものに)あつかって、人々の理想(ねがい)をあらわしているのである。感情=評価的な態度と理想とは、生活現象に対する人々の政治=社会的な見解・道徳的な見解・美意識などに規定されるのだから、作品内容の主観的な側面をなしている。

22 社会科学のそれぞれの分野は、人間の生活現象のあるひとつの側面をとりあげて、そこで働いている法則をあきらかにするのが任務であって、けっして人間の生活現象を全体としてとらえはしない。社会的な人間の生活をあらゆる側面にわたって複雑さのままに全体としてとらえるのは文学(一般的には芸術)の任務であって、この点に認識としての文学の存在意義がある。

23 主題は作家がえがきだしているものであり、理想は作家が表現しているものである。

24 文学はあるべき生活上の理想をえがきだしているわけだが、この理想像は文学においては美しいものとしてあらわれる。・・・・・作品の内容はまず美の観点から評価された形象なのである。

25 作品内容としての感情は文体のなかにはっきりと表現をうけている。

26 すぐれた文学教育で育てられた子どもはこの美の感情にささえられて生活現象を評価し、みずからの行動を統制するだろう。この場合、評価と統制とのかがみになるのは美の理想像である。

27 形象の部分はまさにそれが主題の表現に奉仕しているために、主題をつかまえることによってより鮮明に・より具体的に知覚できるのである。

芥川龍之介『トロッコ』のテーマを考える

 教科研・国語部会では作品のテーマをとらえる授業が課題になっていますが、そのささやかな試みのひとつとして、提案してみたいと思います。

この作品のテーマを考えるために、手順として六つに区分した場面のテーマをふりかえってみましょう。

 

f:id:kanjiron:20191104200152j:plain

  • 第一の場面は、「ふくらむトロッコへの好奇心」とまとめました。良平が工事場のトロッコの格好よさにあこがれ、トロッコへの好奇心をふくらませていったことが描かれていました。

f:id:kanjiron:20191104200246j:plain

  • 二の場面は、「消化不良なおもい(不満足な結末)」とまとめてみました。土工のすがたの見えないすきにトロッコに飛び乗ってはみたものの、すぐに止まってしまい、そのうえもどってきた土工にどなられて、逃げ帰ったということがかかれていました。

f:id:kanjiron:20191104200404j:plain

  • 三の場面は、「夢がかなった良平のトロッコを押しながらゆれうごく心もようのおもしろさ」とまとめました。土工といっしょにトロッコを押しながらも、いつ、もう押さなくてもいいと言われるか‐と心配したり、下り坂をトロッコに乗せてもらってすべりくだった快感など、良平の心もようのおもしろさが描かれていました。

f:id:kanjiron:20191104200424j:plain

  • 四の場面は、「土工と良平の心理的なへだたりの対照性」とまとめました。遠くまで来すぎてしまったと感じて、はやくもどってくれないかなあ‐とあせる良平と、そんな良平のいらだちにはまったくむとんちゃくに茶店に入ってのんきそうに茶などを飲んでいる、土工たちとの心理の対照性がえがかれていました。

f:id:kanjiron:20191104200444j:plain

  • 五の場面は、「自身の身にふりかかった危機をのりきるために必死にかけつづけた良平」とまとめました。「われはもう帰んな」と突然いわれて、自分のおかれた状況をさとり、遠い道のりを、せまりくる闇の恐怖とたたかいながら必死にかけもどってくる、良平の悲壮さがえがきだされていました。

f:id:kanjiron:20191104200503j:plain

  • 六の場面は、「遠い道のりを駆け通してやっとわが家にたどりついた、万感せまる感情を、ただ泣き立てることでしか表わすことのできなかった良平」とまとめました。必死のおもいでようやく家にたどりついた良平は、家族や近所の人たちの問いかけにも、その感情をただ泣き立てることでしか表わすことができなかったのでした。

 

  • このように、1~6までの場面のテーマをまとめてみましたが、でわ、作品全体のテーマはどうとらえたらよいのでしょうか? 作品の最後のところをもう一度みてみましょう。ここで突如26歳になって妻子をかかえるようになった良平がでてきます。が、この物語の舞台は何才のときのことでしたか? 8才の時のことですね。しかし彼は、大人になってからもどうかするとそのときの彼を思い出すことがあるのですね。なぜでしょう? それはきっと、良平にとって、とてもわすれることのできない「強烈な体験」だったからではないでしょうか?

 

  • ということで、この作品のテーマを、「大人になった今でも突然おもいだされてくる、ただ泣き立てることでしか表現できなかった幼い日の記憶――トロッコへの子どもらしい好奇心からおもわぬ危機におちいり、命さえたすかればと、板草履や羽織を脱ぎ捨ててまでも、遠くさびしい山道を必死の思いで家までかけもどってきた体験」―と、まとめておきましょう。

 

  • ところでおしまいの文の、「塵労に疲れた彼の前には、今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が細々と一すじ断続している……」が意味しているものは何でしょうか?

 妻子といっしょに東京へ出てきた良平は、今、どんな仕事についていますか? ある雑誌社の二階に校正の朱筆を握っているのですね。今では、良平は家庭をもち、比較的安定した生活をおくっているようにもみえますが、それでもどうかすると、あのときの情景がふと脳裏にうかんでくるのですね。それは、良平にとって、あの出来事というのが、ある意味で、生き方をも決定づけたとおもえるような、それほどに衝撃的な経験であった‐ということを表わしているのではないか……と・・・